Blues ‘A Minor

‘A Barは、木屋町と先斗町をつなぐトンネルのような13番路地の木屋町側の入り口近くにある。
4月7日だったか、その夜、街は静まり返っていた。新型コロナウイルスの感染拡大防止のための緊急事態宣言は解除されたものの、営業時間の短縮要請という〈規制〉を受け、ほとんどの店は午後9時で営業を終える。酒類のラストオーダーは8時半までだ。早い時間から店を開けている酒場でも苦しいのに、営業が8時からだという‘A Barはなおさらだろうなと思いながら、8時ちょうどにドアを引いた。

もちろんその夜最初の客だ。バランタインの水割りをオーダーし、バーテンダー氏と言葉を交わす。彼との付き合いは昨年(’20年)の晩夏、僕の写真展を訪れてくれたことにはじまる。写真をじっくり見た後で僕の拙いエッセイ集を選んでくれた。その折に本の話や旅の話をし、必ず店を覗くと約束したのだが、訪れたのはその夜がはじめてだった。

彼は静かな口調で、この1年、ほんとうに苦しかったと振り返った。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、緊急事態宣言が繰り返され、営業時間の短縮が求められた。休業したり、時間短縮をしたり、それなりに工夫や努力を重ねてきたが、もう限界だ。最後は住まいを処分し、店で寝泊りをしながら耐えたが、それでも状況はよくならなかった。
「うちは8時オープンです。夜9時までなら30分しかない。それでは営業できないですね」
もし、まん延防止等重点措置が適用されれば営業時間は午後8時までとなる。営業は不可能だ。〈時短要請〉などではない、営業するなと言っているのだ。

彼は言った。
「4月19日で9周年なのですが、その日に店を閉めます」
その表情は淡々としていたが、胸の内には言葉にできないほどの悔しさが秘められているのではないかと思った。店を拠点にして様々なイベントやボランティア活動に関わってきたと聞いた。それもできなくなるのだ。さぞ残念だろうと。
「せめてキリのいい10周年まで続けたかったでしょう?」
「そうですね。でも仕方ないですね」
「これからどうするの?」

横浜で年老いた父親が一人暮らしをしているという。しばらくはそこに身を寄せると。
「父のところは狭いですからね。僕は荷物が多いですから、早く次を探して引っ越ししないと大変なのですが」
彼は小さく笑いながら言った。
「次って?」
「熱海あたりで新しい店を開こうかと思っています」
苦しい状況にあっても、決して楽な道は選ばない。密かな決意があるように思った。

バランタインでラスティネイルをオーダーした。おそらく僕は二度とこの店を訪れることはないだろう。その寂しさ、辛さをなんとかしたいと思ったのだ。ラスティネイルのカクテル言葉は「私の苦痛を和らげる」だ。ほんとうに辛いのは彼の方なのに。
「どこに行っても、元気で」
店を出る時そう言うのが精一杯だった。
静まり返った街。聞こえるはずのないブルースが耳にまとわりついて離れなかった。

ドラちゃんの趣味

たこ入道に何をしに行くか。そんなことを人にたずねたら、おまえはアホかと笑われるに決まってる。そうだ、たこ入道には酒を飲みに行くに決まっている。そんなわかりきったことをたずねているのではない。そう思うおまえがアホかと言い返さなければならない。
それは、酒を飲むにもなぜたこ入道を選ぶのかと聞き直したほうがいいかもしれないな。
たとえば僕の場合だが、ドラちゃんと話に行くのだ。そう、おおよその場合僕はその店のだれかと話をしに行くと言っていいだろう。それが店のだれかであることも、常連のお客さんであることも、相手はそれぞれの店で変わることはあっても、まずだれかと話すために酒を飲むのだ。

それがたこ入道の場合、ドラちゃんなのだ。「なんえ、うちとちゃうのん!?」と美智子ママから横やりが入りそうだが、そうなのだ。あるいは「ドラちゃんは無口やから、話になりますか?」と訝る人もいるだろう。ここだけの話だが、ああ見えて(どう見えるっちゅうねん)ドラちゃんは話があうとけっこう話し込む。趣味が合うとなおさらだ。
ドラちゃんと僕には共通の趣味がある。第一に読書だ。ドラちゃんはよく本を読む。ドラちゃんのバッグには必ず、取り出しやすいところに本を入れて持ち歩いている。このあいだ見かけた時は、タイトルこそ見えなかったけど、ずいぶん読み込んで表紙カバーがボロボロになった本が入っていた。

ドラちゃんと僕が共通で読んでいるもの。それは池波正太郎の一連の作品、とりわけ「鬼平犯科帳」だ。どのエピソードがいちばん好きかとか、密偵は誰がいちばんかっこいいとか、盗賊の中でいちばん許せないやつは誰かなどと、カウンターを挟んでボソボソと話をする。いつかそんな話をしていたところに、大滝の五郎蔵親分を演じていた故綿引勝彦さんが飛び込んできて盛り上がったことがある。あの時は「密偵たちの宴」の話だったっけ。忘れられない夜だ。

第二は阪神タイガースだ。シーズンになるとゲームのある日は必ずラジオ中継がかかっている。ドラちゃんは仕事しながらしっかり聞いている。しかし、ああだこうだと評論家めいたことは言わない。時々「福本の解説はおもろいなあ」などとゲーム本線以外のところでつぶやいたりする。とても静かだが、それだから人一倍の阪神愛を感じるのだ。

第三は、これはつい最近知ったことなのだが、スヌーピー大好きおじさんということだ。生誕70周年を迎えたスヌーピーの60年くらいを一緒に育ってきたわけだが、どうやらドラちゃんもそうらしい。数日前に会ったときスヌーピーの話になったのだが、ドラちゃんはペパーミント・パティがどうやら好きらしいが、なんとスヌーピーに登場するすべてのキャラクターの名前と性格が頭の中にインプットされているのだ。ちょっとびっくりしたな。

ああやって、無口でクールを装ってはいるけれど、ドラちゃん、なかなかやるよね。だから僕は、ドラちゃんと話すためにたこ入道に飲みに行くのだ。

働くことは幸せ

営業再開の日。久しぶりに看板に灯が入った

長いトンネルだった。ほんとうに先の見えない日々を、どれほどの人が過ごしていただろう。新型コロナウイルスとのせめぎあいのような日々だ。特に都市部の飲食業に携わる人にとっては苦しい日々だったに違いない。

閉めたままの店も多い

たこ入道にしても、去年12月21日からは営業時間の短縮要請を受けて夜9時までの営業とし、年が明けて1月14日京都府にも緊急事態宣言が発出されると解除予定の2月7日までは休業を決めた。しかし状況は改善せず緊急事態宣言は3月7日まで延長され、たこ入道の再開も見送られたのだ。そうしてようやく、状況改善の兆しを受けて2月28日に宣言解除が決まると、翌3月1日たこ入道はひと月半ぶりに営業を再開した。営業再開とはいえ、営業は以前同様夜9時まで。酒類の提供は夜8時までだ。

黙々とだしを引くドラちゃん

早速美智子ママとドラちゃんの顔を見に出かけた。京都の街はどこも人が少なかった。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、新型コロナウイルスの感染が収束したわけではない。変異種という新たな脅威、恐怖もある。街に出るのを極力避けようとする思いは強いだろう。錦市場を抜け、河原町を回り木屋町に向かった。最悪時の状況は知らない。しかし、ほんとうにこれが観光都市京都かと思わざるを得ない風景だった。気をぬくと第4波がくる、リバウンドするんじゃないかという、心の奥底を流れる恐怖感が渦を巻いている。これがニューノーマル、新しい生活様式というやつなのだろうか。

人通りの少ない錦市場
客のいないスタンド
人もまばらな蛸薬師通

開店の5時ちょうどに店の前に着いた。懐かしい風景だ。暖簾を割って中に入る。
「いらっしゃい!」
ドラちゃんがにこやかに迎えてくれた。何人かの先客がにこやかにくつろいでいた。カウンターはピカピカに磨き上げられている。店内は隅々まで掃除が行き届いていた。いつ営業再開してもいいように準備を整えていたようだ。
「営業再開おめでとうやね」と言うとドラちゃんは黙って笑った。
この日をどれだけ待ちわびていたか、その笑顔を見ただけでわかった。
美智子ママもいつになく愛想がいいし、言葉数も多い。高揚感が伝わってくる。ほんとうによかったと思った。

愛想よく話し相手になる美智子ママ

酔客の一人が教えてくれた。ドラちゃんは休業中も定休日を除く毎日、店に出勤していたという。客を迎えるわけではない。客を迎えるための準備を毎日欠かさなかったということだ。
「毎日出勤して、掃除して鍋釜食器を磨いてた?」と聞くと、ドラちゃんは笑ってうなずいた。
「店は休業やけど、うちらは休日やのうて仕事あるさかいな」美智子ママも笑いながら言った。
勘違いしていた。店が休みなら、ママもドラちゃんも休みだと。とんでもなかった。毎日出勤してちゃんと仕事をしていたのだ。

いつ見ても美しい風景

「補償金、給付金をもらって、飲食店はいいじゃないか」などという人がいる。そういう人は働けることの幸せを知らない人じゃないだろうか。働かないで金儲けだけしたいと思っているのではないだろうか。ドラちゃんやママにとって、働くことは幸せだし、どんな形であれ仕事を奪われることは苦痛でしかない。そうして僕らは、たこ入道の2人の仕事に身を委ね一息つくことが最上の喜びであり、幸せなんだ。飲食業だけが感染源だと言うような人がいる。そういう人はたこ入道のような店で味わえる幸せも知らないのだ。そんな当たり前のことが見えなくなっていた。そんな当たり前のことを気づかせてくれたのが新型コロナウイルスだったことはとても皮肉なことだが、この幸せを後戻りさせてはならない。そう強く思ってたこ入道を後にした。

働く幸せが漂うカウンター

胸に輝くたこバッジ!!

人は「得」に弱い。少々のお得感を手に入れるために、命の危険を顧みない日本人がなんと多いことか。ここまで読んで、ん⁉︎何のことだと思う人もいるだろう。そういうあなたこそ、無意識のうちにお得の前に命を差し出すに違いない。そう、これはGO TO TRAVELキャンペーンのこと。

普段泊まれない高い宿がお得な価格で利用できるとあって、この時期新型コロナウィルス感染の危険も顧みず、旅行に出かける人が多い。知人などは冬の札幌に家族での旅行を予約したものの、このところの感染者の激増を見て早速家族会議を開いたそうだ。結局は「少々危険を払ってでも二度と行けないかもしれないので、行こう!」という結論になったとか。

みんな「お得」に弱いのであれば、じゃあたこ入道もお得にと考えてみたが、普段からお得だらけの店なので(ただし笑顔とお愛想というお得感は皆無だ)、今更お得といったところで何ができる……。いっそのこと、不景気なこの年末を笑い飛ばすようなことをやろうと。それには一緒に遊べる感じがいいんじゃないかと。

ではじめたのがGO TO TAKO キャンペーンだ。HPに堂々と告知した。

たこ入道Webサイトをご覧の皆様に数量限定先着順でGo To Takoキャンペーンを開催しています。ご来店していただき、ご注文時に「ネットで見たよ!缶バッジ欲しい」とお伝え下さい。たこ入道特製缶バッジをプレゼント致します。(各デザイン数量限定です。缶バッジの在庫がなくなり次第終了します)
ドラちゃんバージョンはレアだ

「何をするんやな」と美智子ママは笑った。
「プププ」ドラちゃんは結構気に入ってくれた。
あなたもたこ入道ファンなら、胸にひとつこのバッジを!

キャンペーンスタートを前に盛り上がるドラちゃん

明石焼きは飲み物か!?

その日のスタートは暇だった

「どないやねんな、この暇さ加減は……」ママは深いため息をついた。ドラちゃんは小さく頷いた。
その日、たこ入道は暇だった。開店から馴染みの客が1人入ったものの後続はなく、1時間半ほどはラジオの音が虚しく流れるだけで、ドラちゃんもママも手持ち無沙汰に過ごしていた。
ようやく独り客が2人、カップルが1組入ったのが開店から1時間半ほど経った頃だった。しかし暇な状態に変化はなかった。

はい! 明石焼きの焼き上がり!

ラジオの阪神広島戦が5回を迎えた頃だった。男性3人組がにこやかに入ってきた。明石焼きの焼き台の前に陣取り、それぞれ飲み物と明石焼きを注文する。「熱い熱い」を連発しながら勢いよく食べる。その表情はうまそうというより、実にうれしそうと言う方がぴったりだった。5分ほどで3人ともつけ出汁の器を口元に運び出汁をすすりはじめた。どうやら平らげたようだ。その頃までにさらに5人の客が増え七割方の席が埋まった。そのほとんどが明石焼きを注文する。
ドラちゃんはどんどん焼き続けどんどん客に出していく。注文のすべてをこなしたのに、さらに焼き続ける。前の3人組の追加だ。そうして食べ終わるとまた注文する。
ドラちゃんに彼らが何人前食べたのか聞いた。
「9人前」
ドラちゃんがフッと笑いながら言った。
「よく来るの?」
「たまに」
3人組の話を聞いてみた。

焼き台前に陣取った3人。真ん中が宮田さん

3人は宮田賢さんを中心とする会社の同僚。
会社は京都リサーチパークに本社を置く時代の先端を行く会社のようだ。
〈不可能ヲ可能ニスル世界観〉
そんなフレーズが名刺にあった。
時々たこ入道に、それも明石焼きを食べるために、3人でやって来るという。
いちばんよく食べていそうな彼に聞いた。
「今日はどれくらい食べました?」
「40個(4人前)ですね。今50個目を頼んでます」
「今日はまだ少ないほうじゃないかな」宮田さんが笑った。「10人前くらいいけるでしょ」
いちばんの彼は言う。
「来た時は必ずここ(焼き台前)に座ります。焼けたらすぐに出してもらえるでしょ。無駄な動きを省くためにもね」
「洗い場に板が溜まってくると、ちょっと遠慮して洗えるのを待ってたりしますけどね」と宮田さん。
ママがすかさず「そんなもんなんぼでもあるえ」と笑う。そうこうしている間に追加分が焼ける。50個目だ。

次々に焼かれる明石焼き

いちばんの彼はぽっこり出たお腹をさすって言った。
「明石焼きが溜まってる」
しかしまだまだ入りそうな感じだ。100個というのも誇張ではないなと思った。
「このふわふわ感がたまりませんよ。口の中で溶けていくみたいな。それと出汁かな」
彼の食べ方はこの店では珍しい。つけ出汁の中に3個ほど一度に入れる。そうすることで少々冷め、出汁を吸ってさらに柔らかくなり、食べやすく美味しくなるというのだ。それは「食べる」というよりも、さながら「飲む」という感じだなと思っていると、彼が笑いながら言った。
「明石焼きは飲み物ですから!」
まさにいただきますの一言だった。

食べるのではなく、飲む

時代の先端で仕事をする彼らには、たこ入道の明石焼きは思考疲れの頭を休めるには絶好の一品かもしれない。
結局彼はその日50個止まりだったようだ。
お疲れ様でした。

幸せを呼ぶたこ入道の明石焼き

木曜日の憂鬱

懐かしいたこ入道の灰皿

水曜日の17時に車を走らせた。これから木曜日の朝を目指して京都に向かう。ほぼ1000キロを爆走するのだ。休憩時間を考えても早朝5時には、いや、うまくすれば4時くらいには着くはずだ。少々休息を取り、午前中には仕事を済ませる。あとは京都の休暇を楽しむのだ、と言いたいところだが、そうは問屋が卸さない。金になることも、ならないことも含めて、短時間の間にいろいろとやらなければならないことが山積している。

日奈久SAの夕陽。ちくわを買ってと……

そうなると、空いた時間に飲み歩くことだけが楽しみになる。しかし、なかなか状況が許さない。新型コロナウィルスという厄介な奴が、京都でも息を潜めている。そいつの悪の手にかからないように十分注意して動かなければならない。そう思うだけで気分は萎える。いやいやそんなことではいけない。楽しみのシュミレーションを京都へのドライビングフォースにする。

朝からかどやで一杯

さて、着いたらすぐにかどやで豚汁とビールか……。そいつはダメだな。車を落ち着けるまでは、アルコールはご法度だ。始動は宿の駐車場に車を止めてからだ。昼過ぎか……。山本まんぼかたつみかで少々飲んで、昼寝でもかまして、夜はたこ入道からリスタートだな。久しぶりに無口なドラちゃんを相手に焼酎飲って、顔なじみから俺が不在の間のトピックスでも聞くか。その後は京都の街をたっぷりパトロールして、宿に向かうか。いずれにしてもたこ入道メインで組み立てようか。

山本まんぼ

そうそう、〆のラーメンを忘れてはいけないな。第一旭、横綱、天下一品は行った。大豊ラーメンか天龍か、まあその時の気分で決めようかな。ふふふふふ、しかし、こんなことを考えながら走ってりゃあ、眠気もこないわ。待ってろよ京都! 待ってろよたこ入道! 待ってろよドラちゃん! 待ってろよ京都のおねえちゃん!

第一旭

「山ちゃん、何をニタニタしてる?」
いきなりボスの声が。ずっと助手席で居眠りしてると思ったのに……。
「いや、明日の晩のたこは楽しみだなと」
「ふふふふふ……」
な、なんだ、その不気味な笑いは。
「山ちゃん、残念やな。明日は木曜日、たこ入道は休みや。たこだけやないな。たつみも休み」
う、迂闊だった。金曜日の午後には鹿児島に向けて走らなければならない。唯一の夜が木曜日になるなんて。たこ入道の定休日に当たってるなんて。これは何かの罠か……。木曜日の夜が一気に暗黒になってしまった。

山田”クリオネ”正博

俺は清水哲男事務所のSE、山田”クリオネ”正博だ。たこ入道のHPを勝手につくった男だ。そんな俺が滅多に来ない京都で一晩を過ごすのに、たこに行けないなんて。一気に憂鬱がひろがっていく。味気ない1泊4日弾丸京都ツアーになりそうだ。

忘憂物……

秋だ。酒の季節だ。
秋の酒はいい。人を誘うまでもなく、独りでじっくり物思いに耽りながら、杯を傾ける。とびきり美味い料理なんて必要ない。憂さのひとつふたつがあれば十分なのだ。

ほら、酒を一斗飲む間に詩を百詠んだという陶淵明に「飲酒」という詩がある。

秋菊有佳色 秋菊佳色あり
衷露採其英 露をまとうてその英を掇る
汎此忘憂物 此の忘憂の物に汎かべて、
遠我遺世情 我が世を遺るるの情を遠くす

忘憂物……。酒のことだ。頭に浮かんでは消える様々のことも、杯を重ねるにつけ、何処かに忘れてしまい、いつか日が暮れて世は何事もなかったかのようだといった感じだろうか。秋の酒はクールに飲むのがいい。

そんなクールな酒を求めて、高瀬川の流れを遡上するように、木屋町を蛸薬師に急ぐ。
だが思惑はすぐにはずれる。ここはたとえ独りで訪れても、顔なじみの酔客に両脇を固められ、あるいは向かいから見据えられ、決して独りを気取れないのだ。
こうなりゃあ仕方がない。ビールの1本も空けた頃には、クールな独り酒に諦めもつく。

すると陶淵明は去り、李白が現れる。

兩人對酌山花開
一杯一杯復一杯

だ。前後左右の酔客と対酌がはじまる。酒を酌み交わし、言葉を交え、夜を過ごす。
この店は、人を独りにしない。誰をも自然に受け入れ、分け隔てなく相対する。酒で憂さを忘れさせてくれるのではなく、人の空気で憂さを忘れさせてくれるのだ。

ドラちゃんの名前を知ってるかい?

山本“ドラちゃん”秀則
ドラちゃんのニコニコ

ドラ、ドラさん、ドラちゃん……。
客は彼のことを様々に呼ぶ。隣に座っている若い酔客が「おい、ドラ!」と彼を呼ぶのは、横で聴いていても不愉快だ。
どれだけの常連かは知らないが、せめてドラちゃんくらいにしておけと思う。
しかし、ドラちゃんはニコニコ対応する。ほんとうはどう思っているのかはわからない。
極端な感情表現はない。だから酔客は余計に調子に乗るのだ。

そんな酔客をつかまえてたずねてみた。
「あなたはドラちゃんの名前を知っているか?」と。
「……」答えはなかった。「名前なんか知らんでも、ドラはドラや。なあドラ」
声を大きくしてそう言い、ドラちゃんの様子をうかがう。
ドラちゃんは相変わらずニコニコしている。
すると反対側の隣に座っていたベテランの酔客が若い客に言った。
「なんでドラさんはアメフトのジャージを着続けてるか知ってるか?」
若い酔客がふてくされて言った。
「そんなん知らんでも酒は飲める。なあドラ」
ドラちゃんは相変わらずニコニコしている。

別の酔客が美智子ママにたずねる。
「お二人はご夫婦?」と。
「なんでやねんな」とママ。
「じゃあ親子?」
「アホかいな」とママ。
ドラちゃんは相変わらずニコニコしている。

謎、は多い。
この店にも、二人にも、謎が多いのだ。
そんなこと知らなくても酒は飲める。でもこの店では知りたいことが山ほどある。
それを知るには、長く通い、そこにいることだ。
そうすることで、この店が自分に馴染み、自分も馴染みになっていくのだ。
ママの無愛想も、ドラちゃんのニコニコも、酔客を育てうまく操るための隠し味になっている。
さて今夜も出かけるとしようか。